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2023.09.24
こんにちは。滋賀ブライダルフォトワークスです。
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彦根城は、井伊家が治めた居城ですが、その井伊家についてお教えしたいと思います。
彦根藩主である井伊家は、江戸時代の日本における重要な藩の一つであり、彦根城を拠点に栄えた藩の一族です。この藩の歴史は長く、多岐にわたるため、以下では井伊家の起源、歴史、文化、著名な人物、そしてその影響などについて詳細に解説します。
井伊家は、戦国時代の尾張国(現在の愛知県)を起源とする家系で、その起源は古く、鎌倉時代にまで遡ります。井伊氏は、初めは尾張源氏の一族とされており、尾張の地で武士として台頭していきました。室町時代には、尾張の守護大名である斯波氏の家臣となり、その後も家族の武勇や政治手腕によって領土と権勢を拡大していきました。
安土桃山時代に入ると、井伊直政(なおまさ)が、豊臣秀吉に仕える重要な存在となります。井伊直政は、豊臣政権下で功績を挙げ、豊臣秀吉の信任を得て尾張国内に所領を得るなどして、井伊家の基盤を固めました。
井伊家の最も有名な事績の一つは、彦根城の築城です。井伊直政の時代、豊臣政権下で彦根地方の領主としての地位を築き、慶長19年(1614年)に彦根城を築城し、城下町を整備しました。これが後の彦根藩の基盤となり、井伊家は彦根藩の創立者として名を馳せることとなりました。
彦根藩は、豊かな自然資源と交通の要所である琵琶湖周辺に位置していたため、経済的にも豊かでした。特に、湖畔や周辺地域では農産物や水産物、陶器などが生産され、交易が盛んに行われました。
文化面でも彦根藩は繁栄し、井伊家は文化や芸術の後援者として知られています。歌舞、茶道、俳諧などが奨励され、文化人や芸術家が集まり、芸術の向上と発展に寄与しました。
井伊家の中でも特に著名な人物として知られるのが、井伊直弼(いい なおひで)です。彦根藩第7代藩主でありながら、幕末期に幕府の要職である老中に任命されました。彼は、安政の大獄を実施するなどして、当時の社会の安定と幕政の強化を図りました。
安政の大獄は、安政の混乱期における政治的・社会的な問題への対応を目指すものでした。これにおいて井伊直弼は、徳川幕府の強化や藩政改革を進めるため、強硬な手法で尊王攘夷の志士や不穏分子を取り締まりました。しかし、その強権的な手法が多くの人々から反発を招き、結果的に彼の暗殺につながる要因ともなりました。
安政5年(1858年)、井伊直弼は近江屋事件で刺殺されました。彼の死は、当時の政治的状況や尊王攘夷運動、幕府との対立など多くの要因が複雑に絡み合って起こったものであり、その影響は大きかったです。直弼の死後、井伊家は断絶し、彦根藩は一時的に幕府直轄領となりました。
井伊家は、明治時代に入り、版籍奉還によって彦根藩が廃止された後も、井伊家は名家として存続しました。現代においても、井伊家の子孫は歴史や文化の継承に尽力しています。また、彦根城は現在でも観光名所として存在し、井伊家ゆかりの歴史や文化が多くの人々に親しまれています。
彦根城は、井伊家が築城した要塞であり、井伊家の象徴的な存在となっています。この城は、現在も国の重要文化財として保存され、観光客に開放されています。彦根城は、独特の構造や美しい庭園、歴史的価値から多くの人々が訪れ、井伊家の歴史や文化を学ぶ場となっています。
井伊直弼は、幕末の動乱期において、安定と現代化を図るために強硬な手法をとったことで知られています。安政の大獄は、彼の指導のもとで実施され、反対派や異を唱える人々に対して厳格な取り締まりが行われました。
一方で、その強権的な政策や手法は賛否両論あり、後世の評価は一定でありません。彼の急進的な改革が、一部では日本の近代化の先駆けであったとする意見もありますが、他方では個人の独走や民衆への抑圧と見なす意見も根強く存在します。
現代においても、井伊家の子孫は井伊直弼や井伊家の歴史を伝える活動を行っています。彦根城や彦根藩の歴史、井伊直弼の功績や死についての研究・啓発活動が行われており、井伊家の名前や業績が後世に伝えられています。
彦根藩主井伊家は、歴史的な背景や時代背景のもとで多くの歴史的出来事や人物と関わり、日本の歴史に深く関与した家系です。その歴史や文化は、現代の日本においても多くの人々に愛され、学ばれています。
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