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滋賀県ゆかりの戦国武将 近江に居城を持った明智光秀と織田信長

2021.03.08

滋賀県で結婚式の前撮りや、結婚式を挙げずに写真で残すフォトウェディングを専門に行う、口コミ評価の高い滋賀ブライダルフォトワークスがおすすめする滋賀の人気観光スポット紹介。今回は、滋賀の観光スポットではなく、戦国時代に近江の地に居城を持ち、天下統一を目指した武将をご紹介したいと思います。

明智光秀公
令和2年の大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公にもなった明智光秀公は、主君であった織田信長から近江地を拝領し、滋賀県大津市の坂本に居城を築城しました。この明智光秀ですが、生まれは様々な見解が示されていますが、1528年ごろに生まれ、岐阜県生まれ説と滋賀県生まれ説があります。通称は十兵衛と呼ばれ、キンカン頭というあだ名があったと言われている光秀は、美濃国のマムシと呼ばれた斎藤道三や、越前の名門であった朝倉義景の元に仕官した後、室町幕府の将軍足利義昭の上洛に尽力した人物です。知力に優れていた光秀は、交渉力や、城の築城に関する知識が豊富で、そのほか、歌や戦国武将のステータスでもあった茶道にも精通した教養の高い武将でした。そして、いくつもの才能を持つ教養の高さを高く評価した織田信長の家臣となります。そして、能力を重視する信長のもとで瞬く間に出世し、重用されるようになります。1582年に主君である織田信長へ謀反を起こし、京都の本能寺において破りましたが、10日後の山崎の戦いにおいて豊臣秀吉に敗れて生涯を終えました。日本の歴史において、人気の高い武将であった織田信長を自害させた裏切り者、謀反者として、評価の低い人物とされてきましたが、近年の歴史研究において、明智光秀公の評価は変わり、領民から慕われる有能な武将であったとされています。
明智光秀の妻である照子は、キリシタンで有名な細川ガラシャの母でもあります。生涯、側室を持たずに照子を正室として、仲睦まじい光秀夫婦も人格者である光秀公らしい話です。

織田信長公
1534年に尾張国の守護織田信秀の長男として現在の愛知県で生まれました。幼少時代は吉法師と名乗っていました。家督を継いだ頃は、何を考えているのかわならないとか、予測不能な動きをするとかで「うつけ者」と呼ばれていましたが、美濃の国の斎藤道三の娘であった帰蝶を正室に迎え、1560年には駿河国の名門である今川義元の大軍を桶狭間の戦いで破ってからは、「天下布武」の旗印とし、その理念のもと日本全国にその名を知らしめる大名となって行きました。近江国(現在の滋賀県北部に位置する長浜市浅井町)に居城を構えていた大名浅井長政と越前の名門朝倉義景の連合軍を琵琶湖へと流れる姉川の戦いで被り、足利義昭を京都より追放した後、室町幕府を滅ぼすことになるのです。そして、1582年から3年の歳月をかけ、現在の滋賀県近江八幡市安土町に絢爛豪華な安土城を築城しました。しかし、その3年後、天下統一へとあと一歩と迫った中で、京都の本能寺において、家臣であった明智光秀により1582年に謀反を起こされ、自害し49年の生涯に幕を閉じました。

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