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大河ドラマの主人公滋賀県ゆかりの戦国武将明智光秀を知る

2020.07.07

滋賀県の豊かな歴史遺産や文化遺産を使ったフォトウェディング や結婚式の前撮りが人気の滋賀ブライダルフォトワークスがおすすめする、地元滋賀の観光スポット情報。今回は、滋賀県の大津市に居城を構えた大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公である明智光秀を知ってもらうシリーズです。大津市の比叡山の麓で坂本城主として近江の国を治めた明智光秀ですが、今も坂本の街には、光秀ゆかりの観光スポットがたくさんあります。観光スポットを回るときに、その人物像を知っていれば、もっと興味を抱き、また違った角度からも楽しめるのではないかと思い、光秀の人物像について紹介したいと思います。

側室を持たず、生涯正室照子一人を愛した一途な思い
明智光秀公はは、美濃国(現在の岐阜県)土岐郡妻木城の城主であった妻木一族から照子を嫁に迎えるとの約束をしていたそうですが、天然痘を患い、その後遺症で顔に痣ができてしまったため、妻木一族は、照子の代わりとして、照子の妹を嫁がせるとの話がありました。しかしながら、明智光秀はその話を断って、照子を正室として迎えました。夫婦になってからも光秀の照子に対する愛する思いは変わらず、戦国時代では珍しいく、光秀は照子が亡くなるまで一人の側室もとらなかったそうです。その頃に仕えていた大名斎藤道三が息子の斎藤義龍との「長良川の戦い」で敗死し、それに伴い、美濃を追われたときには、光秀の子を宿し、身重の照子を光秀が背負って越前へと逃げたと伝わります。

黒髪を売って家計を支えた照子
明智光秀が朝倉義景を頼り越前に逃亡したのち、その越前の地において連歌会を開催することとなりました。しかし、開催するにあたり必要なお金が用意できない光秀に対し、妻照子は自分の長い黒髪を売り、会の費用として差し出したそうです。かの俳人松尾芭蕉も「月さびよ 明智の妻が 咄せむ」とまで詠んだそうです。やがて、織田信長の家臣となった頃、光秀がその疲れから病で床に伏しますが、その光秀を照子は不眠不休で看病します。光秀は元気を取り戻しますが、逆に照子がその疲れで倒れ、帰らぬ人となってしまうのでした。

領民に慕われた光秀
織田信長と徳川家康の連合軍は「長篠の戦い」において甲斐国の大名武田勝頼を破りました。その直後、信長より光秀に対し、丹波の国の平定を命じられました。照子がなくなり、心身ともに苦しいい時ではありましたが、光秀は援軍や自らの武運もあり、丹波の国を平定することができました。平定後、光秀は丹波の国城横山城を福知山城と改名し、城の改修を行いました。水害の多い地域である由良川と土師川の合わさる場所の治水工事を行い、災害から城下を守り、税の免除や楽市楽座の許可など、経済面での政治力に力を発揮し、丹波の領民から慕われたそうです。

家来に等しく厚い光秀の思い
1571年に織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちで、近江の国坂本(滋賀県大津市坂本)の街は焼き尽くされました。その後、光秀は檀信徒と力を合わせ西教寺の再建を果たします。そして、今堅田の戦いで討ち死にした家臣18名の霊を慰めるために、明智光秀は西教寺へ米を寄付したと伝えられています。光秀は、明智家に使える武将や兵たちの身分に関わらず、全ての霊に対し同じ量の米を供えたそうです。この家来に対する光秀の等しく優しい思いは、その寄進状を見ても明らかです。坂本の街にある西教寺には、今も本堂前に光秀、照子をはじめとする明智一族のお墓があります。

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